

生命の樹が教えてくれる、もうひとつの世界の見方 The Tree of Life teaches us another way of looking at the world
毎日、いろいろなことがありますよね。 仕事のこと、人間関係のこと、これからの人生のこと。 何か問題が起きると、私たちはつい、その問題だけを見つめてしまいます。 どうしてこんなことが起きたんだろう。 なぜ、いつも同じようなことで悩んでしまうんだろう。 どうすれば、この状況から抜け出せるんだろう。 そんなふうに考えているうちに、目の前の出来事が、自分の世界のすべてになってしまうことがあります。 でも、少し不思議だと思いませんか。 同じ出来事でも、あるときは大きな問題に感じられ、別のときには、それほど気にならなくなることがあります。 出来事そのものは変わっていないのに、なぜ、こんなにも感じ方が違うのでしょう。 もしかすると、変わっているのは出来事ではなく、私たちが世界を見ている視点なのかもしれません。 私たちは、世界のほんの一部分を見ている 例えば、森の中に立っている自分を想像してみてください。 目の前には大きな木があり、その向こうにもたくさんの木が並んでいます。 森の中にいると、見えるのは自分の周囲の景色だけです。 けれど、もし空高くからその森を眺め


世界を見る「地図」を持つということ Having a "map" to see the world
もしあなたが今、 目の前にあるコップも、 悩んでいる人間関係も、 朝起きたときに感じる気分の重さも—— 全部「バラバラの出来事」として経験しているなら 「生命の樹」を知ることで、その景色は少し変わるかもしれません。 生命の樹とは、カバラの伝統の中で形成されてきた、宇宙と人間を読み解くための象徴的な地図です。 最も物質的で具体的な領域から、最も抽象的で根源的な領域まで。 10のセフィロトが、一つの樹のようにつながっています。 知る前は、こう見えていた世界。 ・お金の悩みは「お金の問題」 ・人間関係のつまずきは「相性の問題」 ・なんとなく感じる虚しさは「気の持ちようの問題」 すべてが別々の引き出しに、バラバラにしまわれている。 けれど生命の樹を知り、それを自分自身に重ねて眺めるようになると、少し違う見方が生まれてきます。 知った後は、こう見えてくる。 ・私は今、この現実をどのように生きているのだろう ー マルクト ・その奥で、どんな無意識やイメージが動いているのだろう — イエソド ・それは、どのような思考や言葉として現れているのだろう — ホド..


騙す人、騙される人―形而上学から考える「私たちは何を現実だと思っているのか」 Deceivers and Deceived: A Metaphysical Perspective on "What Do We Perceive as Reality?"
詐欺被害のニュースが、毎日のように報道されています。 そして私自身も最近、詐欺と思われる電話を受け、もう少しで被害につながるところだった、という経験をしました。 「まさか自分が」と思う一方で、その経験を通して、あらためて考えさせられたことがありました。 人は、なぜ人を騙すのでしょう。 そして、なぜ人は騙されるのでしょう。 嘘をつかれたこと。 信じていた人に裏切られたこと。 あるいは、詐欺に遭ってしまったこと。 私たちはこうした出来事に出会うと、 「どうして見抜けなかったのだろう」 「なぜ信じてしまったのだろう」 「私の見る目がなかったのだろうか」 と、自分自身を責めてしまうことがあります。 けれど形而上学的にこの問題を考えていくと、もう少し深い問いが見えてきます。 それは、「私たちは、いったい何を“現実”だと思って生きているのか」 という問いです。 なお、ここでいう形而上学とは、目に見える現象の奥にある構造や、意識のはたらきそのものを問う探究のことを指しています。 私たちは「現実そのもの」を見ているのか 私たちは普段、自分は世界をそのま


Vol. 7.ケテル : 王冠に還る、根源とひとつになる旅 Kether : A journey to return to the crown, to become one with the source.
〜 神聖な地図を歩く — カバラと魂の進化の旅 〜 「私は誰か。」 この問いを、私たちはずっと旅してきました。 肉体としての自分。 感情としての自分。 思考としての自分。 役割としての自分。 魂としての自分。 ひとつひとつの層を通り抜けながら、ここまで来ました。 けれど、旅の最後に残る問いは、もっと静かでもっと深いものです。 「“私”とは、本当は何なのだろうか。」 「“私”とは、どこまでが私なのだろうか。」 生命の樹の旅は、ここで言葉を失います。 なぜなら、ここは言葉が届くよりも前の場所だからです。 生命の樹の頂点。 第1セフィラ—— ケテル(Kether) その意味は、「王冠」。 それは権力の象徴ではありません。 すべての存在が生まれる最初の光。 純粋なる存在。 分離する前の意識。 神秘思想では、ここを「神に最も近い顕現」と表現することがあります。 ケテルは神そのものではなく、名づけることのできない源が最初に顕れた場所です。 ケテルとは、“何者でもない”場所 "何者でもない"とは、価値がないという意味ではありません。 どんな役割にも縛られず、す


Vol. 6. ビナーとコクマー: 母なる理解と父なる叡智、創造の原理に触れる Binah and Chokmah : Touching upon the principles of creation, maternal understanding and paternal wisdom.
〜 神聖な地図を歩く — カバラと魂の進化の旅 〜 「人生は、自分に起こるものなのか。それとも、自分が共に創っているものなのか。」 ここまでの旅で、私たちはずいぶん遠くまで来ました。 マルクトで、現実に立つことを学び。 イエソドで、潜在意識の鏡を見つめ。 ホドとネツァクで、知性と感情という二つの翼を整え。 ティファレトで、本当の自己の光に触れ。 ゲブラーとケセドで、愛と力のバランスを学びました。 そして今、旅はさらに高い領域へ向かいます。 ここから先は、個人的な癒しや自己成長だけの話ではありません。 もっと大きな問いが始まります。 「そもそも、世界はどう創られているのか?」 生命の樹の至高の三角形。 そこにあるのが、ビナー(Binah) と コクマー(Chokmah)です。 三柱の頂点として — 慈悲と峻厳の源流 生命の樹には、三つの縦の柱があります。 右の柱(慈悲の柱) 左の柱(峻厳の柱) 中央の柱(均衡の柱) コクマーは慈悲の柱の頂点。ゲブラーとケセドで学んだ「力と愛」の根源が、ここに宿っています。 ビナーは峻厳の柱の頂点。ゲブラーが「必要な




















