叡智の園| lucis-sylva
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​Messages

人を裁くなかれ。
理解せよ。
そして受容せよ。
その汚れのない魂を受けとめよ。


 

知識と言う松明を掲げ、歩いていていても大きな視点で心を使う事ができなければ、その松明は無明である。

 

自分の行いに、しっかりとした意志というものが宿っているのか。

なんの疑いもなく押し付けられた情報に流され、シャドーのかかった正義や善に踊らされてはいないのか。
まるで飼いならされた羊の群れの如く、崖淵にいることに気付いているのか。
自分がなぜそれをしているのか、したいのかをもう一度問いかけよ。

目覚める為に何度でも気づきの機会が与えられる。
個の意識の為に、集団の意識の為に。

 

何かを避けようとしての自由は自由ではない
自由である時、そこにはなんら対立はないから。
対立があるところには、恐れがある。
自由には、決して恐れはない。

 

変化を受け入れた時に、自分の成長を知ることが出来ます。
成長することによって、豊かさが育まれていきます。

 

「正義」として発せられている「怒り」が多くの混乱やカオスを招いています。
あなた方が怒りを発する時、それは純粋であるべきです。
怒りはパワーであり、そのパワーは単なる破壊をまねくものではなく、産み出すものです。
この純粋性は神の光がどれだけ宿っているかということを意味しています。
怒りは慈悲の別の顔とも言われます。
その慈悲なくして怒りを発した時、それはただの破壊となり、何もそこから得ることはできないだけなく、

痛みを自らも負う事となります。
高我により発せられた怒りには慈悲が宿り、破壊するべきものは破壊しながらも、そこから新しいものを産み出すことが出来ます。
自分を判断することもありません。

 

喜びの中に、光があります。
その光りの中に、愛があります。
あなたの心が喜びに満ちた時に、神の愛があなたを包むでしょう。

 

個としての自我が目覚めた時、自分と他人、内側と外側とういう分離が始まり、自分を外に、他人に映しはじめます。
物心がつき、「私」という主体を持った時より、この分離の世界の中で生きるという事が始まります。
そして、分離のその中に分離が無いものを内包していることに気付いた時より、ワンネスという道が顕れてきます。

低我から高我へ、そして大いなる宇宙の調和と一体となった真我へ。

真我は、遥か先にあるのではなく、常にそこにあります。
真我が顕れてくるのは、一瞬一瞬の在り方。
そこにあなたが存在しているかどうかです。

 

調和とは、お互いを生かし(活かし)あうものであり、

そしてそこに新しいものを創造するエネルギーが作られるものである。

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